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フルナギネヲの雑記帖

三宅香帆「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない」

「自分の言葉で、自分の好きなものを語る──それによって、自分が自分に対して信頼できる「好き」をつくることができる」

「なんのために『推し』を言語化するの?」という章に出てくる一文であり、そのものずばり「なんのために言語化するのか」という問いに対する答えとして書かれている。

 この本は基本的には口語調寄りの平易な文章で、もったいぶった格調高い言い回しなどはほとんど出てこない(あまりに口語に寄っているのでかえってクセを感じるほどである)。体裁から見ても、縦書き本にはやや珍しい、数行に一回空行を挟むといういわゆる横書き縦スクロールのブログに多い形式で、いかにすらすらと気持ちよく読み進められるかが全体を通して重視されているように見える。

 しかしこの一文にだけは妙に含みがあって、文のシンプルさのわりに意味がすっと入ってこない。

「自分が自分に対して信頼できる「好き」」とは何か。その後の文章で詳しく述べられているが、本文を引用しながらかいつまんで言うと、「「好き」の言語化」を続けていくことによって「今はもう好きじゃなくても、いつのまにか自分の一部になっていた「好き」の感情」を「保存」し、蓄積し、それがやがて「丸ごと自分の価値観や人生になっている」、それが「自分が自分に対して信頼できる「好き」」ということである。

 これはなるほどと思った(こういう、今までそう考えたことがなかったけれどなるほどそうだと思わせる抽象の言語化能力がさすが文筆家というところである)。

 自分の言葉で発した「好き」は、案外覚えているものである。Facebookに書いた日記のようなブックレビュー。好きなアイドルの新譜を聴いてTwitterで騒ぎちらしたこと。好きなカレー屋の話を友だちにしたこと。それら一つ一つが、記憶としての人生の一部であることは間違いない。

 インプットしたことはアウトプットも同時に行うと記憶が定着しやすい、というようなことを何かのビジネス本で読んだのも思い出す。

「なんのために「推し」を言語化するの?」という問いの第一の答えは、布教のためでも交流のためでもなく「自分の人生に「推し」を永住させるため」、ひいては「自分の人生を「好き」でかたどるため」というなかなか深い思想にたどり着くのである。

 この本はこういった「なぜ感想を書くのか」という思想的なところから、実際に感想を書く際の焦点の絞り方、「自分の言葉」で感想を練ることの重要性、読み手との情報格差に気を付けること、SNS(すなわち「他人の感想」)との付き合い方、長文の書き方など、作文という観点からオタク感想を網羅的に扱っており、かなり充実した内容になっている。



 

追記(という名の第二章)

 

個人的に琴線に触れた箇所を列挙していきたい。

 

 谷川嘉浩という哲学者の言葉を借りて、「推しに対する感想が「もやもやした状態」を保っておくことの重要性」を説いている。

 この言葉自体は初めて聞いたけれど、同じようなことを高校時代の当時の校長から聞いたのを思い出した(全校集会での話などではなく、道端でばったり会った校長にいきなりそんな話をされたのだ)。大学への進学が決まった頃……もしくはもう通い始めていた頃だったかもしれない。大学はどうだ、順調か、みたいな話の流れのまま「「ゴルディアスの結び目」を君は知っているか」と校長は言った。神話的・伝説的な話だが、「ゴルディアスの結び目」という誰も解けない固い結び目を、時の王アレクサンドロス3世は剣で一刀両断したという話である。誰も解けないような難解な問題が立ちはだかった時、時には思い切った解決法を試してみるべきという教訓が含まれるこの話だが、校長はこう言った。

「この結び目を、刀で切るなんてことはせず、そのままポケットに仕舞っておくんだ。解き方が分からなくてもやもやする(もやもやするという表現を当時彼が使ったかどうかは覚えていないが)、そういうものを一旦寝かせておく、そういう肝の太さもアカデミアには必要だ」

 それだけ言って彼は去っていった。このことが何を意味するのか、未熟ながらまだはっきりとは掴めていない(まるでゴルディアスの結び目のようだ)。しかし察するに、谷川嘉浩という哲学者の言う「ネガティブ・ケイパビリティ」とよく似た概念のようである。よく分からないもやもやしたものに初めて名前が付いたようで、もやもやの表層が薄く剥がれたような気がする。

 

  • 面白さとは「共感」か「驚き」である

 歌人穂村弘が著書「短歌の友人」(河出書房新社)で述べていたことらしい。ここから敷衍して、「オタク感想」も「共感」と「驚き」を軸に焦点を絞れば良いという話に本書ではなっていく。しかし私がこの箇所であまりに共感し、驚いたのは、「面白さとは「共感」か「驚き」である」という分析そのものが、私自身が普段からエンタメに対して行っていた分析とまったく同じだったという点である。

 短歌のことはよく分からないが、私がこれをもっとも感じるのは「お笑い」に関してである。例えば漫才なら、ざっくり言えばボケが提供しているのが「驚き」でツッコミが提供しているのが「共感」である。その上で、ツッコミの側にある程度の「驚き」を混ぜたり、ボケがいきなり「共感」を提供して変調するなどの手法で漫才師というものはそれぞれのアイデンティティーを確立している、というのが素人分析である。

 音楽もそれに違わない。ポップスにおいて顕著だが、曲の構成というのはたいてい「予測可能な部分」と「唐突な、予測不可能な部分」のバランスで成り立っている。「予測可能な部分」、たとえば同じビートが3小節続いて、”オーディエンスの予想通り”4小節目も続く、というような部分がいわゆる「共感」で、1番ではAメロBメロサビという構成だったのに2番ではBメロのあとのサビを省略して間奏に突入する、などの手法がいわゆる「驚き」である。「共感」によって快適さを与えながら、適度な頻度で「驚き」を提供することによってオーディエンスを飽きさせず、音楽にのめり込ませる、それがエンタメ音楽のセオリーである(もちろん素人分析である)。

「短歌の友人」は是非一読してみたい。

 

  • ネガティブな感想は「不快」か「退屈」である

 これも直近の友人との会話を思い出した。ある友人と私は、二人ともInstagramが苦手だった(その代わりTwitter(X)はよく見ていた)。それぞれが「なぜ苦手と感じるか」を言語化しようと試みたのだが、つまるところ友人にとっては「不快」、私には「退屈」だったのだ。それを聞いていた別の友人は「退屈ってつまり不快ってことじゃん(だから二人の言っていることは一緒だ)」というようなことを言ったが、厳密には同じではないのだ、ということがこの本でようやく腑に落ちた。

 

  • 推し語り例文集

 最果タヒが取り上げられているのは最果タヒファンとして冥利に尽きる。その名の通り「「好き」の因数分解」(リトルモア)という素敵な本もある。ほとんど読んだことがなかったが三浦しをんのエッセイも気になる。推し語りで言えば映画好きを公言して憚らない松田青子のエッセイ集も良い。書評でいうと昔読んだ丸谷才一(書評集「快楽としての読書」)を思い出す。一時期、丸谷才一の書き方を真似てブックレビューを書いてみたこともある。また読み返したくなった。