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フルナギネヲの雑記帖

生で聴く現代音楽と「笑い」

 現代音楽(理解できないもの)に直面したとき、人はとにかく「笑う」という例を、奇しくも2日連続で、現場で味わってしまった。

 笑うことがいけないわけではないが、笑いながら聴き続けることが果たして本当に正しい態度だったのだろうかというもやもやの長文である。

 10月9日月曜日、東京で開催されたアイマスジャズセッション団体のミニライブに参加した。そこで披露されたのが「法螺貝部」によるジョン・ケージ(を模したオリジナル楽曲)だった。4人の奏者(白い修行衣?を着ている)が各々複数の法螺貝を持ち、法螺貝にペットボトルで水を注ぐ(下にはバケツが用意してある)。もしくは水の入った法螺貝をちゃぷちゃぷんと揺らす。それをしばらく続けた後、サンプリングされた依田芳乃(アイドルマスターのキャラクター、法螺貝を吹く)のゲームボイス「そなた…」(数種類)をフェードインさせ、「そなたもご一緒に」「ぶぉー」を契機に法螺貝の(本来の)演奏が始まる。4人がそれぞれの(ピッチの異なった)法螺貝を吹き鳴らし、クライマックスを迎えたところで、フェーズは再び水音に戻る。そして、一人また一人と音を出すのをやめ、静かに終演を迎える。

 次の日に聴いたのはオーストリアの凄腕金管七重奏芸人団体「Mnozil Brass」のコンサートだった。クラシックを中心にロックやジャズなど様々な有名曲を"ごちゃまぜにして"笑いを取りながらところどころで超絶技巧を披露する集団だが、一曲、かなり現代音楽寄りの曲目があった(プログラム冊子にも「ゲンダイオンガクの世界初演」とわざわざ書かれていた)。椅子に座った5人の奏者(Tp、Tb1、Tb2、Tb3、Tuba)が、指揮者(のような動きをしているメンバー)に合わせて、それぞれの楽器を手にしながら、しかし"普通に"は吹かない。バズィングや「息を吹き込む」「楽器を口に当てて声を出す」などの奏法で、まるで風が吹いていて虫がたくさん飛んでいるかのような世界観を醸し出す。時折楽器の音を出すが、はっきりしたメロディーもリズムもハーモニーもない。しばらくするとTb3が恐ろしい高音域で短いパッセージを演奏し始める(高音域の得意な奏者である)。それに呼応するようにTb1が恐ろしく高い"声"で呻くような音を出す(楽器は脇に置いている)。時々Tpが刺すような高音のスタッカートを鳴らす。2回3回と鳴らす。Tuba奏者がいきなり床に座り込み、自分の履いていた靴で床をバシンと鳴らす。Tb2はマウスピースとスライド"だけ"でヴーなどとバズィングだか声だかよく分からない音を出している。高音域と呻き声とヴーとバシンバシンがどんどん重なり、ヒートアップし、指揮者の横に最初から直立不動で立っていたもう一人のメンバー(謎の男)がだんだん発狂するような仕草をする。一度音を切った後、最後に管全員でB(だかなんだか分からないがとにかく特定のピッチ)のユニゾンをfffで一発吹き鳴らし、謎の男も晴れやかな顔になって、終了である。

 聴衆は曲中、何か新鮮な音が鳴るたびに笑った。それが2回3回と続くと今度は「続いた」ということに反応して笑う。大きな音が急に鳴ると笑う。急に止むと笑う。とにかく笑いながら聴いている。これは法螺貝にもMnozilにも共通だった。

 Mnozilは元々「笑いを提供する音楽集団」なので、聴衆は常に「笑いどころを探しながら」聴いているという節はある。これはMnozilが求めていることなので文句を言うべきところではないしむしろ正しい態度なのだが、上記のゲンダイオンガクを聴きながら私は「これは単なる笑いで済ますにはあまりにも"きちんと作曲されている"」と感じて、途中から声を出すのをやめてしまった。

 各フェーズが「何を意味しているか」「何をイメージして演奏されているか」は分からない。指揮者の横に立っていた謎の男の正体も謎である(あの男は、聴衆に配慮して「音楽の内容を分かりやすく表現するために立っている」と言うには動きが少なすぎた)。聴衆は、分からないから笑っているのか「分かった気になって」笑っているのかもはや分からなかった。

 途中で3回ほど、音を止めて全員で「ページをめくる」仕草をするシーンがあった。おそらく「楽章」の切れ目だったのだろうけれど、かなり大げさな仕草だったのもあって、そこでも大きめの笑いが起こっていた。ただ次の楽章にいっただけなのに。

「次の楽章にいくだけの動作で笑いを取る」というのはMnozilがきちんと意図したことだったかもしれない。真面目な音楽をやりながら楽章間だけそれをやられたらたしかに可笑しいだろう。聴衆はしかしそこでも、「面白いことをしたから」というよりただ「動きが面白いから」笑っていただけだった。

 私より後ろの席に、おそらく小学生低学年の男児が座っていた。姿は見ていないが、笑い声からそう察せられた。彼にとって、ゲンダイオンガクは相当可笑しかったらしい。誰よりも楽しそうに声を上げていた。声を上げて笑い出すと、それ自体が可笑しくなってくる年頃の子供である。かなりしつこく笑っていた。

 ゲンダイオンガクは、子供にウケる音楽なのかもしれない。それはそれで素晴らしいような気もするが、全体的に「大人が見て分かる笑い」で構成されているコンサートの中で、急に子供向けの笑いを提供されて少し微妙な気持ちになったとも言えるかもしれない(他の曲では、大人たちが笑っている理由が分からなくてかなりイライラしている女の子の声も後ろの客席から聞こえてきていた。客層を選ぶのがなかなか難しいコンサートだったのかも知れない)。

 法螺貝のほうは、聴衆はおそらく全員成人であった(少なくとも小中学生はいなかった)。それでも笑いは起こったし、笑うのをやめなかった。こちらはどちらかというと子供向けの笑いというよりはシュールの笑いだったかもしれない。しかし聴衆はMnozilのときと同じように「笑いどころを探しながら」聴いていたように思えた。

 子供向けの笑いであれシュールの笑いであれ、それで大笑いしながら音楽を聴くということに、若干の違和感を覚えざるを得なかった。大笑いをするには音楽がきちんとしすぎていた。それがこの2日間の体験だった。

 

 違和感がある、と言いながら、いやしかし、笑いながら音楽を聴くということが前提として間違っているわけではない、笑いながら聴く音楽も当然あっていい、という別の意見が自分の中でも持ち上がっており、これがどうももやもやする。

 凄いプレーを見て(聴いて)思わず笑ってしまうこともあるし、オマージュの元ネタに気付いてにやりとすることもある。音楽を取り入れたコント、もしくは音楽そのものでコントをして笑いを取るというのも、演奏会の一つの形として全く間違ってはいない(Mnozilがずっとやっていることだし、モーツァルトサン=サーンスの作品なんかにもある)。

 問題は、「現代音楽を笑いながら聴く」ということをそれらと同等に扱っていいものだろうか、というところである。現代音楽はコントだろうか。せっかくの「世界初演」だったのだから、なるべく集中して聴いたほうが良かったのではないだろうか。

 

 もやもやはともかくとして、私がこの2日間で得たもう一つの重要な悟りは「現代音楽は生で聴くべし」ということであった。

 家で音源を聴く現代音楽も良いかもしれないが、やはりその場で演奏される現代音楽を聴くという体験(現代音楽に限らずクラシックでもジャズでも何でもそうだが)には代えがたい価値がある。次何が起こるか、ドキドキしながらステージを見守る。ものすごく濃密な時間である。また機会があれば、(なるべく「現代音楽だけを演奏するコンサート」みたいなものを選んで)聴きに行きたい。

やまみちゆか「クラシック作曲家列伝」

 どんな作品を残したか、どんな作風だったかということよりも、どんな人柄だったか、誰とどんな関係だったかという人間的な部分に焦点を置いたまとめ方で、クラシック音楽をほとんど知らない人にも読みやすいのではないかと思った。

 巻末の参考文献も今後役に立ちそうである。

 結婚する予定はまだないが、自分の子供のために保存しておこうと思う。

三宅香帆「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない」

「自分の言葉で、自分の好きなものを語る──それによって、自分が自分に対して信頼できる「好き」をつくることができる」

「なんのために『推し』を言語化するの?」という章に出てくる一文であり、そのものずばり「なんのために言語化するのか」という問いに対する答えとして書かれている。

 この本は基本的には口語調寄りの平易な文章で、もったいぶった格調高い言い回しなどはほとんど出てこない(あまりに口語に寄っているのでかえってクセを感じるほどである)。体裁から見ても、縦書き本にはやや珍しい、数行に一回空行を挟むといういわゆる横書き縦スクロールのブログに多い形式で、いかにすらすらと気持ちよく読み進められるかが全体を通して重視されているように見える。

 しかしこの一文にだけは妙に含みがあって、文のシンプルさのわりに意味がすっと入ってこない。

「自分が自分に対して信頼できる「好き」」とは何か。その後の文章で詳しく述べられているが、本文を引用しながらかいつまんで言うと、「「好き」の言語化」を続けていくことによって「今はもう好きじゃなくても、いつのまにか自分の一部になっていた「好き」の感情」を「保存」し、蓄積し、それがやがて「丸ごと自分の価値観や人生になっている」、それが「自分が自分に対して信頼できる「好き」」ということである。

 これはなるほどと思った(こういう、今までそう考えたことがなかったけれどなるほどそうだと思わせる抽象の言語化能力がさすが文筆家というところである)。

 自分の言葉で発した「好き」は、案外覚えているものである。Facebookに書いた日記のようなブックレビュー。好きなアイドルの新譜を聴いてTwitterで騒ぎちらしたこと。好きなカレー屋の話を友だちにしたこと。それら一つ一つが、記憶としての人生の一部であることは間違いない。

 インプットしたことはアウトプットも同時に行うと記憶が定着しやすい、というようなことを何かのビジネス本で読んだのも思い出す。

「なんのために「推し」を言語化するの?」という問いの第一の答えは、布教のためでも交流のためでもなく「自分の人生に「推し」を永住させるため」、ひいては「自分の人生を「好き」でかたどるため」というなかなか深い思想にたどり着くのである。

 この本はこういった「なぜ感想を書くのか」という思想的なところから、実際に感想を書く際の焦点の絞り方、「自分の言葉」で感想を練ることの重要性、読み手との情報格差に気を付けること、SNS(すなわち「他人の感想」)との付き合い方、長文の書き方など、作文という観点からオタク感想を網羅的に扱っており、かなり充実した内容になっている。



 

追記(という名の第二章)

 

個人的に琴線に触れた箇所を列挙していきたい。

 

 谷川嘉浩という哲学者の言葉を借りて、「推しに対する感想が「もやもやした状態」を保っておくことの重要性」を説いている。

 この言葉自体は初めて聞いたけれど、同じようなことを高校時代の当時の校長から聞いたのを思い出した(全校集会での話などではなく、道端でばったり会った校長にいきなりそんな話をされたのだ)。大学への進学が決まった頃……もしくはもう通い始めていた頃だったかもしれない。大学はどうだ、順調か、みたいな話の流れのまま「「ゴルディアスの結び目」を君は知っているか」と校長は言った。神話的・伝説的な話だが、「ゴルディアスの結び目」という誰も解けない固い結び目を、時の王アレクサンドロス3世は剣で一刀両断したという話である。誰も解けないような難解な問題が立ちはだかった時、時には思い切った解決法を試してみるべきという教訓が含まれるこの話だが、校長はこう言った。

「この結び目を、刀で切るなんてことはせず、そのままポケットに仕舞っておくんだ。解き方が分からなくてもやもやする(もやもやするという表現を当時彼が使ったかどうかは覚えていないが)、そういうものを一旦寝かせておく、そういう肝の太さもアカデミアには必要だ」

 それだけ言って彼は去っていった。このことが何を意味するのか、未熟ながらまだはっきりとは掴めていない(まるでゴルディアスの結び目のようだ)。しかし察するに、谷川嘉浩という哲学者の言う「ネガティブ・ケイパビリティ」とよく似た概念のようである。よく分からないもやもやしたものに初めて名前が付いたようで、もやもやの表層が薄く剥がれたような気がする。

 

  • 面白さとは「共感」か「驚き」である

 歌人穂村弘が著書「短歌の友人」(河出書房新社)で述べていたことらしい。ここから敷衍して、「オタク感想」も「共感」と「驚き」を軸に焦点を絞れば良いという話に本書ではなっていく。しかし私がこの箇所であまりに共感し、驚いたのは、「面白さとは「共感」か「驚き」である」という分析そのものが、私自身が普段からエンタメに対して行っていた分析とまったく同じだったという点である。

 短歌のことはよく分からないが、私がこれをもっとも感じるのは「お笑い」に関してである。例えば漫才なら、ざっくり言えばボケが提供しているのが「驚き」でツッコミが提供しているのが「共感」である。その上で、ツッコミの側にある程度の「驚き」を混ぜたり、ボケがいきなり「共感」を提供して変調するなどの手法で漫才師というものはそれぞれのアイデンティティーを確立している、というのが素人分析である。

 音楽もそれに違わない。ポップスにおいて顕著だが、曲の構成というのはたいてい「予測可能な部分」と「唐突な、予測不可能な部分」のバランスで成り立っている。「予測可能な部分」、たとえば同じビートが3小節続いて、”オーディエンスの予想通り”4小節目も続く、というような部分がいわゆる「共感」で、1番ではAメロBメロサビという構成だったのに2番ではBメロのあとのサビを省略して間奏に突入する、などの手法がいわゆる「驚き」である。「共感」によって快適さを与えながら、適度な頻度で「驚き」を提供することによってオーディエンスを飽きさせず、音楽にのめり込ませる、それがエンタメ音楽のセオリーである(もちろん素人分析である)。

「短歌の友人」は是非一読してみたい。

 

  • ネガティブな感想は「不快」か「退屈」である

 これも直近の友人との会話を思い出した。ある友人と私は、二人ともInstagramが苦手だった(その代わりTwitter(X)はよく見ていた)。それぞれが「なぜ苦手と感じるか」を言語化しようと試みたのだが、つまるところ友人にとっては「不快」、私には「退屈」だったのだ。それを聞いていた別の友人は「退屈ってつまり不快ってことじゃん(だから二人の言っていることは一緒だ)」というようなことを言ったが、厳密には同じではないのだ、ということがこの本でようやく腑に落ちた。

 

  • 推し語り例文集

 最果タヒが取り上げられているのは最果タヒファンとして冥利に尽きる。その名の通り「「好き」の因数分解」(リトルモア)という素敵な本もある。ほとんど読んだことがなかったが三浦しをんのエッセイも気になる。推し語りで言えば映画好きを公言して憚らない松田青子のエッセイ集も良い。書評でいうと昔読んだ丸谷才一(書評集「快楽としての読書」)を思い出す。一時期、丸谷才一の書き方を真似てブックレビューを書いてみたこともある。また読み返したくなった。

トラッド/オリジナル

 あるアイリッシュの笛奏者の方がおっしゃっていた、「トラッドを演奏するときとオリジナルを演奏するときで奏法などのアプローチを変えるべきだ」というのは、ジャズの演奏家にとっても含蓄のある視点だった。より正確には「トラッドを演奏する時はトラッドらしく、"自分らしい表現"はオリジナルで出せばいい」という意見である。
 ジャズもそうかも知れない。アメリカ人の書いた曲をアメリカ人がやったように真似してやるのは、いわば「伝統音楽(民族音楽)」へのアプローチに近い。伝統音楽には伝統音楽の良さがあるのだから、伝統音楽をやりたい人は(もしくは伝統的なアプローチが要求されている時は)伝統音楽らしいアプローチでやればいい。逆に、伝統音楽(民族音楽)では飽き足りない、現代を生きる日本人の俺にしか出せない音を出したいというのであれば、オリジナルを書けばいいということである。伝統的なやり方を取り入れてもいいし、取り入れなくてもいい。別に日本らしさということにこだわる必要もない。書きたいものを書けばいいのだ。
 ジャズという言葉は──もちろんジャズに限った話ではないが──、実際として「伝統的な」ものと「前衛的な」ものを両方含んでいる、曖昧なジャンル名である。ジャズを聴く時、もしくは演奏する時、それが本当にジャズなのか、自分が求めているジャズなのか、聴衆が求めているジャズなのか、という問いに自信をもって答えるのは往々にして難しい。しかしこの「トラッド/オリジナル」という枠組みがこのややこしさに一縷の光明を与えてくれたような気がする。

既存曲のオーケストラアレンジというものに挑戦している

答えはないしなかなか終わりも見えない。

できればボカコレ2023夏に出したいと思っているけれど、間に合うかどうか。

あまりうまくいっているとも言い難いけれど、楽しい作業ではある。

SNSよりブログって説もある

Twitterがお亡くなりになり、Threadsもいまいち機能追加が追いついておらず、misskeyやタイッツーも楽しいけれど公式アカウントとして運用するには少し足らず、どこにフルナギネヲはお引越しすればいいのかといろいろ考えた挙げ句、SNSをやめて個人ブログに戻るという手もあるかもしれないという処に思い至った。

これで決定、とまではいかない。

SNSに身を置くことに慣れきってしまった今の身体に、ブログというものが果たして受け付けるのか、長文が書けるのか、投稿が続けられるのか、不安は絶えない。

しかしまぁ、過渡期だと思ってとりあえずやる。

ブログタイトル「fullunaginotes」は、2秒で考えたにしてはそこそこ良い。「notes」には「メモ、雑記」という意味も「音(音楽)」という意味も入っている。これから何が書かれるか分からないこの生まれたばかりのブログちゃんにはなかなかぴったりの名前だと思う。

ページのデザインや具体的な運営方針はぼちぼち決めていこうと思う。